「聴こえない母に訊きにいく」

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を見て、原作を読み、さらに著者の五十嵐大さんの他の著書に興味を持ちました。映画や原作の中にも少し登場した「優生保護法」について、「聴こえない母に訊きに行く」では詳しく書かれています。「優生保護法」は障害者が生まれることを防止し、女性の出産を管理しようとした悪法ですが、聞いたことはあっても、その具体的な内容や成り立ちについてはほとんど知りませんでした。映画をきっかけとして、「優生保護法」について学べて良かったと思いますし、ぜひ介護・福祉にたずさわる方々には知っておいてもらいたい歴史です。

本書は、聴こえない親を持つ、聴こえる子どもであるコーダ(CODAChildren Of Deaf Adult)の著者が、母親にこれまでの人生をインタービューするために会いに行くという形で描かれています。耳の聞こえない母は、どのような子ども時代を過ごし、どのようにして著者を産み育て、どのような幸せや喜びを感じ、どのような差別や偏見を味わってきたのか。息子として、ときには第三者として話を聞き、書き進める視線が斬新です。さらに母の家族や関係者にも取材する中で、「優生保護法」に直面せざるをえず、もしかすると自分は生まれてこなかったかもしれないと思い知らされるのです。

 

「優生保護法」とは1948年に議員立法によって制定され、第一条には「この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする」と書かれていました。つまり、遺伝する恐れのある病気を持つ者や障害者が出産することを防ぐために、不妊手術や人工妊娠中絶を行う条件、避妊具の販売や指導について定めた法律です。遺伝性疾患、ハンセン病、精神障害、身体障害などが対象になり、さらには戦争で家や行き場を失ったホームレスの人たちさえも、不妊手術を実施しようとしたのです。医学的根拠も法的根拠も曖昧なままに、拡大解釈や恣意的な運用がなされて、多くの人たちに取り返しのつかない被害を及ぼしたのです。

 

耳が聴こえないという理由だけで、不妊手術を強いられた時代があったということです。あり得ないと思われるでしょうが、今からわずか80年ほど前の出来事であり、30年前まで適用されていた法律です。最近のコロナ騒動でも、誰が誰にうつしたとか、県境をまたぐなとか、マスクをしていない人は非国民だとか、ワクチンを打たないと飛行機に乗れないとか、同じような現象が起こったことを考えると、私たちは歴史から何も学んでいないことが分かりますし、無知であることを出発点として、差別や偏見はあっという間に広がり、取り返しのつかないところまで行き着く悲劇はいつの世も繰り返されるのですね。

 

五十嵐さんの母は同じろう者である父との結婚を反対されて、駆け落ちしたことがあると言います。もちろん、子どもを産むことも心配されました。五十嵐さんの両親が育った宮城県で強制不妊治療を受けたのは1406人、なんと9歳の子どもが手術を受けた例もあると言います。他の県は1950年後半から手術の件数を減らしていますが、宮城県はなぜか1960年になっても、むしろ1963年から1965年をピークに増加傾向にありました。それには県内で盛んであった「愛の十万人運動」が関係しているそうです。今となっては実に皮肉な名称ですが、その運動の趣意書には「遺伝性の場合は、その両親と子ども、後天性の場合はその精神薄弱の子どもに対して、子どもが生まれないような優生手術をする必要があります。それが、その親と子どものしあわせです」なんて述べられているんのですからおぞましい。

 

当時を知る人たちはこう振り返ります。

 

「被害を受けた人と免れた人、その差はタイミングだったのだと思います。当時はいまよりも情報がありませんでしたから、ろうのコミュニティのなかで力を持つ人―たとえばろう学校の教師などから手術を勧められ、判断もつかないまま受けてしまう、というケースもあったのでしょう。それを免れられたのは、本当に運やタイミングが違っただけなんだと思います」

 

 

五十嵐さんの母は運が良かったのでしょうし、タイミングが少し違えば五十嵐さんは生まれてこなかったのです。その当時はおかしいと思われなくても、どう考えてもおかしいことはあります。いや、当時の人たちもおかしいと思いながらも、国がこう言っているからとか、医師がこう言っているからとか、テレビや新聞もそう言っているからと言って、疑うことをせずに信じてしまったのではないしょうか。そういう無責任で無知な大衆も加害者のひとりなのです。その根底には、“心配”という善意の体を装った、優生思想が横たわっています。技術的にもより自然な形で命の選別が可能になっている今、私たちは歴史を知っておかなければまた同じことを繰り返すのです。