僕が生きてる、ふたつの世界

映画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」を観に行ってきました(実は2回観ました)。耳が聞こえない両親に育てられた著者が書いた「ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと」(タイトル長い…笑)を原作として制作された作品です。ふたつの世界とは、耳が聞こえる健常者の世界と聞こえない障害者の世界があるということです。同じ世界に生きつつも、耳が聞こえないことで、他者とコミュニケーションを取ることが難しく、コミュニケーションが取れるのは手話ができる人の間だけという、断絶された世界に生きざるをえないのです。

 

原作者であり、主人公でもある五十嵐大さん(役者は吉沢亮)は、耳が聞こえない両親に生み育てられ、自身は耳が聞こえるコーダ(日本国内にコーダは2万人以上いるそうです)。家庭で両親とは手話で話し、外に出ると言葉(口語)でコミュニケーションを取ります。小さい頃はそんな生活を当たり前に感じていたのですが、社会に出ていくにつれ、家庭と外の世界が上手く交わらないことに気づき始めます。

たとえば、耳が聞こえないために変な話し方になる母親(忍足亜希子さんの演技力は際立っていました)のことを友だちに指摘され、授業参観に呼びたくなかったり、どうせ聞こえなくて話にならないからといって三者面談では先生と二人で話したりなど。次第に母のことを避けるようになっていくのでした。

 

わずか2時間の映画の中に、いくつも論点が埋め込まれているのですが、「優生保護法」については深くて長くなりそうなので避け、「対等とは?」について少し書きます。手話サークルで知り合った聴覚障害者の女性に誘われて、聴覚障害者だけのグループで食事に行ったときの話が出てきます。主人公は気を利かせたつもりで、細かい注文のやり取りを店員さんとの間に入り、自分が手話を使って通訳をこなしたつもりでしたが、あとから彼女に「私たちの代わりにいろいろやってくれてありがとう。でもね、私たちから“できること”を取り上げないでほしいの」と言われます。

 

この出来事をきっかけに、主人公は母を守ってあげたいと思っていたが、それは違うのではと考えるようになり、また、かつて母がスーパーのレジのバイトをしたいと言ったときに反対して止めたことを思い出して反省します。良かれと思ってやったことが、相手を傷つけてしまうことにつながるという難しさです。

助けてあげようという気持ちが強ければ強いほど、相手から自由を奪い、相手を下に見ることになり、気がつくと上下関係が生まれ、対等ではなくなっていくという矛盾。主人公は、「守る」のではなく、「共に生きていく」を選択しますが、これは(あえて分けるとすれば)健常者と障害者の間にある永遠のテーマなのかもしれません。

 

どこまで配慮すべきかは人それぞれですし、状況や場面によっても違ってくるので、その都度考えて、上手く行ったり失敗したり、傷つけたり傷つけられたりしながらやっていくのが対等な関係性なのではないかと私は思います。お互いに完璧を求めようとすると苦しくなるのではないでしょうか。

 

ひとつだけ印象に残ったシーンを挙げるとすれば、やはり最後の駅のホームのそれです。紆余曲折がありつつも成長し、少し大人になった主人公が、電車の中で母親と楽しく手話で話した後のことでした。電車を降りてから「皆の前で手話で話してくれて、ありがとう」と母親は言いました。その言葉を聞いたとき、これまでどれほど母が孤独であったか、息子と普通に話したいのに話せず悲しい思いをしていたか、それでもあきらめずに愛情を注ぎ続けてくれたかを思い知ったのでした。気づくのに時間はかかったけれど、そのとき初めて、主人公にとっても母にとっても、聞こえる世界と聞こえない世界がつながり、ひとつになったのです。

 

 

映画のできばえとしては、素晴らしいものでした。私の中では、今年のナンバーワンかツーです。当ブログでも以前に紹介したことのある「夜明けのすべて」と比べ、どちらが良いかと問われると、どちらか1つを選ぶのは難しいほどです。同じようなテイストの作品ですが、どちらの脚本も役者も映像もクオリティが高い。映画が大好きで、大学を辞めて映画専門学校に入学しようかと真剣に悩んだこともあった私は、こうした作品を観るとあのときの情熱が少し蘇ってきて、映画を撮りたくなってしまいます。介護・福祉関連の仕事をしている方にはぜひ観てもらいたいですし、単純に映像作品として楽しんでもらいたい映画です。