梅雨はどこに行ってしまったのかと思いながら、猛暑が続く日々を過ごしていると、いつの間にか七夕がやってきました。あわてて前日に準備をするために、町田駅にある花屋さんに行くと、笹が1本だけ残っていました。胸を撫でおろして、ふと見ると、花屋さんにも願いの書かれた短冊がたくさん下がっている笹が飾られています。その中に、誰のものか分かりませんが、「トロント大学に合格できますように」という短冊が見えました。高校生の願いでしょうか。大きな夢があっていいなと素直に思いました。
ちなみに、僕の小さい頃の夢はいつも「野球選手になれますように」でした。小学校から野球を始め、中学高校と続け、プロ野球に入れるほどの才能も肉体もないことは分かっていたのですが、それでも野球選手になりたかったのです。将来の夢と聞かれて、野球選手ぐらいしか思いつかなかったこともありますし、叶わないとしても言うのはタダぐらいの軽い気持ちでした。いずれにしても、今思えば、夢が大きいことは素晴らしいですね。
大人になるにつれて、夢は失われてしまった気がします。20代や30代ぐらいまでは、欲のようなものはありましたが、少年の頃に抱いた大きな夢ではありませんでした。その代わりに、具体的な目標を設定したり、手が届きそうな小さい願いを立てたりするようになりました。それはそれで楽しかったのですが、最近は虚しさを感じるようになっていました。そんなところに、トロント大学の短冊を目にして、大きな夢を抱くことは生きていく上でとても大切なことなのではと実感したのです。
7月7日当日、生徒さんたちに願いごとを短冊に書いて飾ってもらいました。思いのほか、多くの生徒さんたちが協力してくれたと思います。外国人の方も多いクラスなので、何を願ったのか分からないものもありました。「介護職員初任者研修を無事に修了できますように」とか「最後のテストに合格できますように」というのは毎年ある願いですし、私も毎年「湘南ケアカレッジが100年続きますように」と書くようにしています。トロント大学に比べると夢が小さいなあと思いつつ、ふと願いがあるだけでも十分なのではと思ったのです。
私たちは歳を取るにつれて、夢を語れなくなるばかりか、願いすらも立てられなくなります。目先の仕事や雑事、スマホやテレビ、メールやLINEを返すことばかりに時間を奪われてしまい、自分のやりたいことや気持ちに鈍感になってしまっているのではないでしょうか。いざ願いごとを書こうと思っても、自分の夢ばかりか、願いすらも分からなくなってしまっているのです。自分は何がしたいのか?自分の存在意義や使命は?自分は何が好きで、どこに行きたいのか?などなど。自分の心の声を素直に聞いてみる1年に1度のチャンスを、七夕の短冊は与えてくれているのかもしれませんね。