コロナ騒動が始まって以来、最初からずっとブレることなく一貫して、まともな医師であった森田洋之さん(2020年4月にこの記事を読んだときの衝撃は忘れられません)の著書を読みました。医療と政治、マスコミが手を取り合って煽るパンデミック物語に医師として異を唱えることは、相当に勇気の要ることだと思います。テレビやヤフーニュースしか見ない一般の人たちからは非難を浴びせられ、同業の医師たちからは白い目で見られたりしたこともあったはずです。命を盾にした難攻不落の相手との議論に、森田医師はどれほどの時間を費やしたことでしょう。森田さんの素晴らしいところは、ご自身の意見はしっかりと持ちながらも、決して極端に振れることなく、絶妙なバランスを保っていることです。冷静と情熱の間に生きているのでしょう。
森田さんは経済学部を卒業後、医師を志し、北海道の夕張市診療所院長まで務めました。夕張市の財政破綻と共に医療が失われ、果たしてこの地域はどうなるのかと心配したところ、医療費が減っただけではなく、なんと高齢者の死亡率が低くなったのです。自宅にて老衰で亡くなる方が増えたのです。この驚愕の事実を知って、森田さんは日本の医療構造に疑問を持ち始めます。
調べていくうちに、一人あたりの病床数が多い県ほど一人当たりの医療費が高く、しかも平均寿命も短いという相関関係があることが分かります。森田さんはそう書いてはいませんが、つまり、俯瞰して見ると、医療はお金をかけて私たちを殺しているのではないかということです。
個人的な経験を書かせてもらうと、僕は小さい頃からアレルギー性鼻炎に悩まされていて、近くにある耳鼻科に足しげく通っていました。当時は遊びたい盛りで、面倒くさいという気持ちが強かったのですが、母親に促されて週1~2回ぐらいは通院していたはずです。院長の高崎さんは子どもの僕ともたくさん話をして、成長を喜んでくれたり、自身の趣味であるブラックバス釣りについて教えてくれたりしました。受付番号をもらってから診察まで1時間以上も待たされることがありましたが、高崎さんはひとり一人の患者さんたちときちんとコミュニケーションを取りながら、診てくれていたのだと思います。私の中での尊敬すべき医師像はこの高崎さんなのです。
その後、中学生になって大阪に転校したことをきっかけに、違う医師をたずねることになります。高校生になり、大学生になり、また大人になっても、あらゆる皮膚科(私はアトピー性皮膚炎もありました)や耳鼻科に細々と通い続けました。そしてあるとき、私はふと変化に気づいてしまったのです。患者とコミュニケーションを取らないばかりか、患者のことをほとんど診ることもなく、カルテばかり見て入力に忙しく、薬を大量に多種類出しておくだけの医師のなんと多いことか。
あの頃からすでに私は医療構造の変化にうすうす気づき、医師に対する信用を失い始めていたのです。その後、仕事でも医師とやり取りする機会が増えましたが、大変失礼なのですが、まともだと思える人はほとんどいませんでした。医師たちは、私とは違う世界に住んでいるのだと思ったほどです。
森田さんは今回のコロナ騒動について、医療が国民の行動を制限したりしたことは、今に始まったことではなく、表面化しなかっただけで医療の思想として前からずっとあったとおっしゃいます。目の前の患者を診ることもなく、話を聞くこともなく、気持ちに寄り添わないこと。製薬会社と深くつながっていて、とにかく薬を出すことが利益と目的になっていること。政治力を駆使することで、良くも悪くも行政や政府を動かしてしまえること。縦割り構造になっていて他の専門には意見ができず、しかも業界や病院内のヒエラルキー(上下関係)があからさまなこと。自分たちの保身のためにゼロリスクを求めること。今の医学情報や常識が絶対的に正しいと考えていること、などなど。これらの問題はコロナ騒動において表面化しただけであって、実はずっと私たちの社会を少しずつ蝕んできたのです。
私は高崎さんや森田さん、またはケアカレの先生たちなど、素晴らしい医師や看護師もたくさんいることを知っていますから、医療を全否定するわけではありません。昔に戻ってもらいたいとと思っているわけでもありません。ただ私たちはこれからの高齢社会を生きるにあたって、医療の話は鵜呑みにすることなく、話半分にして聞いて、残り半分は自分で調べたり考えたりしてみることが大切だと思います。その薬や検査、手術は本当に必要なのか?と疑ってみる。セカンドオピニオンも良いと思いますし、医師と本音で話してみることも大事です。医療サービスを受ける私たちも賢くならなければならないのです。それが私たちが家畜にならない唯一の道なのではないでしょうか。
そして、医療と介護はつながっていますので(動くお金の規模は全然違いますが)、この先同じようなことが介護の世界にも当てはまるはずです。医療の悪い部分は反面教師として、介護はいつまでも利用者に寄り添っていけたらと願います。