世界を見渡してみる

この数十年間で、世界は一気に近くなりました。それまでは外国に行けるのは一部の限られた人たちでしたし、海外に渡るには何日もかかり、飛行機も命懸けだった時代がありました。ところが、移動手段の高度化、高速化のおかげで気軽に外国を訪れられるようになり、またインターネットが普及したことで、直接外国に行かなくとも、世界のことを知ることができるようになったのです。自ら海外の情報を取ろうと思えばいくらでも取れる、視野を広げようと思えばいくらでも広げることができるのです。僕も2019年には念願のオーストラリアとフランスに行くことができ、世界が広がった気がしました。しかしコロナ騒動の影響で、今後は海外へ自由に渡航することができなくなってしまい、最近はYouTubeのライブで外国の街の様子を見ることにハマっています。

たとえば、アメリカのニューヨークや韓国のソウル、ベトナムのホーチミン、タイのバンコク、香港やマレーシアなど、おそらくGoproのような装着型のビデオカメラを付けた人が街中を歩きまわってライブ配信してくれているのですが、まるで自分がその国の日常に入り込んだような感覚になります。これまでは現地に行かなければ観られなかった日常の風景が、たとえヴァーチャルだとしても、リアルな情報として入ってくるということです。それでは、それぞれの国々の日常を体験してみましょう。

 

 

まずはアメリカのニューヨークです。

続いて、アジアに移動して、ベトナムです。技能実習生として、日本の介護の世界にも多くの人たちが来てくれていますね。

次はタイのバンコクです。今から20年以上前に旅行で行ったことがありますが、意外と街の雰囲気は変わっていないので安心しました。

次は韓国です。韓国のエンターテインメント産業のレベルは非常に高いですよね。

次は香港です。少し前から中国の統治を受け入れざるを得なくなってしまいましたが、現地の人たちはどのような想いで暮らしているのでしょうか。

最後はマレーシアです。かつてシンガポールに住む友人を訪ねたとき、マレーシアまで足を伸ばすか迷って、結局行かなかったのが悔やまれます。人生チャンスは一度だけですね。

パソコンやスマホの前にいるだけで、こうして世界各国の街を歩いているような臨場感を味わえるのですから、インターネットは素晴らしいですね。世界の街中を歩いてみて、気づいたことも多かったのではないでしょうか。特にパッと見た目で分かりやすいのは、日本と韓国は全員がマスクをしているのに対し、アジアの国々では誰もマスクをしていません。屋外ではもちろんのこと、屋内でも同じことです。民主党の政治力が強いニューヨーク州でも、マスク義務化は解除され、付けたい人だけが付けている現状ですね。私たちがテレビで観る海外の映像は、マスクをしているシーンしか切り取られていないので錯覚していますが、現実は全く異なるということです。日本では日常となった風景が、外から見ると異常ということです。良い悪いではなく、逆に海外の人からライブカメラで日本や韓国を見ると、マスクをつけたゾンビが歩いているようにしか見えないはずです(笑)。

 

なぜこのようなことになったのか考察してみると、もちろんあらゆる要因(テレビの偏向報道やシルバー民主主義など)が絡み合ってのものではありますが、同調圧力が強い社会の雰囲気なのだと思います。日本も韓国も「こうあるべき」という儒教的な教えが、遺伝子レベルまで浸透している国民性が似ています。最近、韓国ドラマをよく見ているので分かりますが、社会による押し付けの道徳心と自分のこうありたいという気持ちの葛藤に押しつぶされる様が、韓国人と日本人には共通しています。個人的には葛藤がありながらも、社会全体としては同じように振る舞うことをお互いに求める雰囲気が同調圧力社会を生むのです。自分自身が被害者でありながら、加害者でもあるという構造ですね。

 

 

国民全員総マスク化現象は、単なる同調圧力から生じたのではありません。さらに深層心理をたどれば、偏見や差別が強い人たちが社会の中に一定数いて、それらの人たちの圧力に大多数が屈してしまった結果だと思います。なぜマスクをすることが偏見や差別の象徴であるかは、以前にも書いたので省略しますが、偏見や差別とは、「無知を恐怖で炙(あぶ)ったもの」であるからです。感染症やウイルスに対して無知である人々を恐怖であおることで、人々の他者に対する偏見や差別心がマスクをするという形で表に現れたということです。差別はたいてい悪意のない人がするものなのです。少し視野を広げて世界を見渡してみると、自分たちの世界の中だけにいると知りえない自らの社会のおかしさや、偏見や差別心を感じるきっかけになるのではないでしょうか。