「伴走者」

スタッフの影山さんが見つけて紹介してくれた、浅生鴨(あそうかも)さんの小説です。夏・マラソン編も冬・スキー編も、視覚障害者によるスポーツ競技を扱った内容であり、ちょうど同行援護従業者養成研修の開講に向けて、ガイドヘルパーの先生方と授業をつくり上げているところでしたので、まさにジャストタイミングでした。綿密な取材を通し、特に障害者スポーツの激しさや競技者の心理について、きちんと描かれています。さらに小説としての盛り上がりも十分、登場人物たちの個性も豊かで、最後まで飽きさせることなく読ませてもらいました。個人的には、本(活字)を読むということは、人物や情景などを想像することであり、そこから先の登場人物に見えている情景や人物を想像するという入れ子の構造になっているところが面白いと思いました。

夏・マラソン編における、ブラインドランナーの苦しさの描写は見事です。

 

健常者のマラソンは苦しさとの戦いだ。つらい局面を乗り越え、最後まで耐え抜く者が結果を手にする。だが、ブラインドランナーにはそれに恐怖との戦いが加わる。公道を走るマラソンには坂の上り下りもあれば、カーブもある。路面の状況にしても常に安定しているわけではない。細かな凹凸や轍(わだち)、わずかな段差など、健常者には問題にならないこともブラインドランナーには大きな障害となるのだ。長距離を走り抜き、疲労の極限に達している足には小さな石一つが決定的な衝撃を与えることもある。伴走者は行く手を注意深く観察し、細かく路面の状況を選手に伝えるが、それでも避けきれる障害ばかりではなかった。

 

少しネタバレになりますが、同行援護従業者養成研修においても、授業の一環として伴走リレーを行います。2人一組になって、競技者役の生徒さんはアイマスクをして鈴のついたバトンを持って伴走者と一緒に走り、前で待つ次の走者にバトンを渡します。このとき鈴がついているにもかかわらず、バトンを渡す(受け取る)という行為だけでもかなり難しいのです。そして、いくら伴走者が隣にいるとはいえ、前が見えない状況で走ることの恐怖は実際に体験してみないと分からないかもしれませんね。見えていれば気にならない、ちょっとした地面の凹凸や窪み柔らかさ、ひとつの石ころの存在が障害に感じるのです。

 

冬・スキー編では、周りの状況を想像すればするほど恐怖が増していくことについて綴られています。

 

ゴーグルをつけてゲレンデのいちばん緩やかな斜面に立った涼介は、背中にじっとりと冷たい汗が流れるのを感じた。怖いのだ。そんなはずはないと頭ではわかっているのに、なぜかすぐ前に急斜面があるような気がして、僅かでも板が滑ると緊張した。

 

見えないとはこういうことなのか。周りの状況を想像すればするほど恐怖が増していく。

 

アルペンスキーでは、いかに抵抗を減らし、重力を効率的に利用できるかが勝負のポイントになる。だがそれほどの技術があっても、最終的にコンマ数秒の差を生み出せるのは恐怖を克服する勇気だ。勇気を持たない者は勝つことができない。

(中略)

恐る恐る足を踏み出す。視界をふさがれた状態で滑り始めると、自分がどれほどのスピードを出しているのか全く分からなかった。間違いなく斜面にいることはわかるのだが、斜面の角度が分からない。それどころか自分の重心がどこにあるのかも次第に分からなくなっていく。

 

この2つの物語に登場する伴走者(健常者)は、障害者の競技スポーツを通して視覚障害者を理解しようとして、その交流を通して勝つことやそれをサポートすることの意義を問うていきます。つまり支援について学んだのです。冬・スキー編において、伴走者の立川涼介が競技者の晴にこう言われます。

 

「ねえ、立川さん。私ってずっと誰かに支えてもらわなきゃダメなのかな。誰かを支えちゃダメなのかな」

 

涼介は背中を激しく叩かれたような気がした。晴は自分にできることをやろうとしたのだ。それなのに、晴が俺に何かをしようとするたびに、俺はそれを拒否していた。晴の気持ちなど考えず、ただ拒否していた。涼介の胸の奥に鈍い痛みが走る。晴に頼らないことで、俺は晴を傷つけていたのだ。

 

「霧の中で滑った時のことを覚えています?」柔らかな声だった。

「ああ」

あの日、霧の中で俺は晴を信じた。前が見えない恐怖を隠さず、強がることもなく、ただ晴だけを頼りに滑ったのだ。そう。間違いなく、あの時の晴は俺を支えていた。

 

「大会に出てくれないか」静かに聞く。「俺と一緒に大会へ出てくれないか」もう一度聞いた。本当は大会などどうでもよかった。二人で同じ目的へ向かうあの感覚。勝者が受ける称賛よりも、あの感覚の方が今の俺にはよほど必要なんだ。

 

 

伴走しているつもりが、気が付くと伴走されていた。自分が支えていると思っていたのに、実は自分が支えられていたということは、私たちにもよく起こることではないでしょうか。それが行きすぎてしまうと共依存になってしまいますが、お互いに足りないところを補い合う、時には支えて時には支えてもらう、そして二人で同じ時間や場所を共有して、同じ目的を目指して、喜びや悲しみを分かち合う。そこには伴走者と非伴走者という関係ではなく、パートナーとして、ベターハーフとしての素晴らしい関係が生まれるのです。