いろいろな方々と話したり、接したりしながら仕事をしていると、それぞれが自分の考えを強く持って生きていることが分かります。それはとても良いことではありますが、一方で、人間は自分の頭の箱の中でしか考えられない面もあり、あまりに想いが強すぎると、それは思い込みになり、単なるエゴになることもあります。それは私を含めた誰しもに当てはまることでしょう。「私は正しい」という想いこそがすでに正しくないというか、「私は正しくないかもしれない」と考えることが正しいのだと思います。私たちは常にいったん立ち止まり、他者の声に耳を傾け、あらゆる面から物事を見て、もう一度考えてみることが大切なのです。そのためには、まずは自分を疑う、自分の考えをいったん保留するところから始めなければなりません。
エゴや思い込みほど怖いものはありません。それらは自分の育った環境や与えられた教育、周りにいた人々から遺伝的なことまで、人生におけるありとあらゆる要素が集まって、重なって、つくり上げられたもの。エゴや思い込みがあるからこそ生きるエネルギーが生まれる面もあるのですが、結局はひとりの人間の経験してきたことや知っていることには限界があります。共感や傾聴や他者理解をするためには(もしくはそれに近づくためには)、まずは自分という存在を一旦横に置いておくことができなければならないのです。そして、これほど難しいことはありません。
芸術家の岡本太郎さんは、著書の中で、己を殺せと言いました。とても示唆に富んだ文章ですので、長くなりますが引用させてもらいます。
臨済禅師という方はまことに立派な方で、「道で仏に逢えば、仏を殺せ」と言われた、素晴らしいお言葉です、という一節があった。有名な言葉だ。ぼくも知っている。確かに鋭く人間存在の真実、機微をついていると思う。しかし、ぼくは一種の疑問を感じるのだ。今日の現実の中で、そのような言葉をただ繰り返しただけで、果たして実際の働きを持つだろうか。とかく、そういう一般をオヤッと思わせるような文句をひねくりまわして、型の上にアグラをかいているから、禅がかつての魅力を失ってしまったのではないか。
で、ぼくは壇上に立つと、それをきっかけにして問いかけた。「道で仏に逢えば、と言うが、みなさんが今から何日でもいい、京都の街角に立っていて御覧なさい。仏に出逢えると思いますか。逢えると思う人は手を挙げて下さい」誰も挙げない。「逢いっこない。逢えるはずはないんです。では、何に逢うと思いますか」これにも返事がなかった。坊さんたちはシンとして静まっている。そこでぼくは激しい言葉でぶっつけた。「出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」会場全体がどよめいた。やがて、ワーッと猛烈な拍手。
(「自分の中に毒を持て」)
私も40歳を超えて、自分がいかに思い込みに満ちていて、エゴを抱いて生きているか思い知りました。他者のエゴや思い込みも手に取るように分かるようになりました。そして、思い込みやエゴによって、私たちは苦しみ、他者を傷つけてしまうのだということも。これからの課題は、いかに自分を殺す、つまり自分の思い込みやエゴを捨てることができるかなのだと思います。今の情報化社会を生きる私たちは、自分は何でも知っていると思いがちですが、まずは知らないことを知ることから始めなければなりません。他人の意見を聞き、本を読み、しっかりと考えてから行動してみる。それが人間としての知性のあり方であり、これからの社会に求められる生き方なのだと思います。