「田中直樹さんの演奏会があるので聴きにきませんか?」と卒業生の岡本さんに誘われて、東林間にある「東林バーベキュー」に行ってきました。直樹さんは岡本さんが経営する(以前、介護仕事百景でも取り上げた)「千手」の利用者さんであり、私も彼のガイドヘルプに同行させてもらったことがあります。そのときに、厚木にある音楽の先生のお宅でのレッスンに付き添い、彼の弾くピアノを聴かせてもらったのでした。彼がピアノの鍵盤に触れると、時間が止まったような感覚を抱いたことを鮮明に覚えています。言葉で表現するのは難しいのですが、こちら側の世界からあちら側の世界に連れていかれてしまった感じ。あちらの世界では、私はただ聴衆のひとりでしかなく、自分の無力さを思い知りつつ、彼の奏でる音楽にいつしか身を委ねるようになるのです。
さらに彼は自分でも曲をつくるというから驚きです。楽譜を持ってきたというので、見せてもらったところ、曲のタイトルが書いてあって、その下にカタカナのような音符♪のようなものが並んでいて、私には全く分かりませんでした。彼にはここに音楽が見えるのだと思うと不思議な気持ちでした。頭に浮かんだ音楽を、音にして、書き留めるそうです。
彼は音楽についてはもちろん、ピアノについても、いわゆる体系的に学んだことはないし、それでもこうして自ら作曲し演奏しているのです。そう考えると、音楽というものは、何か崇高なものではなく、生きていくための自然な行為なのだと思わされます。私たちが現代社会で生きてきた中で、いつの間にかそういった生きる術を失ってしまっているだけなのかもしれません。
音楽の先生も、そして岡本さんも、彼のことを「メッセンジャー」だと言います。私たちに何かを伝えることができる人。私たちが持っていないもの、失ってしまったものを探し出し、目の前にポンと差し出してくれる人。私たちに何かを考えさせてくれる人。その人がいるだけで、周りの人々が幸せを感じられる人。
彼のピアノを弾いているときとそうでないときのギャップや、彼の周りにはいつも人が集まって囲んでいる様子などを見ると、セロニアス・モンクという私が大好きなジャズピアニストを思い浮かべます。セロニアス・モンクはその独特な演奏やリズムや音だけではなく、その私生活や言動も実にミステリアスで一般の人々には理解不能に映りました。しかし、彼の音楽に触れ、理解した人たちは彼をメッセンジャーとして見たのです。
「新しい音(NOTE)なんてどこにもない。鍵盤を見てみなさい。すべての音はそこに既に並んでいる。でも君がある音にしっかり意味をこめれば、それは違った響き方をする。君がやるべきことは、本当に意味をこめた音を拾い上げることだ」、
「お前が絶対に無理だと思ったことでも、誰かが現れ、それを成し遂げる。天才っていうのは誰より自分らしくある奴だ」
セロニアス・モンクはこう語り、ひとつひとつに意味を込めること、そして自分らしくあることの大切さを伝えたのです。私は田中直樹さんのような人が、自分らしくありながら、生きていくことができる社会を望みます。そのためには、周りにいる人たちの導きやサポートが必要ですし、彼の才能を磨きあげることができる環境を整えることも重要だと思います。実はセロニアス・モンクには長い不遇の時代がありましたが、多くの人々に助けられて、音楽活動を続けることができ、最後は伝説の人となったのです。セロニアス・モンクをそのまま田中直樹さんに押しつけるつもりはありませんが、何かができないことは何かができることにつながるということを、私たちはもっと深い意味で知っておくべきなのだと思うのです。
演奏会の模様をまとめてみましたので、ぜひご覧ください。彼の奏でる音はいつまでも耳に残ります。