記憶に残る学校

「○○さんという方を知りませんか?」と8月短期クラスの生徒さんに聞かれました。ピンと来なかったので、下の名前も教えてもらったのですが、私の脳内検索結果には1人もヒットしませんでした。卒業生さんたちの名前とお顔はほとんど全員覚えているつもりですが、さすがに1000名を超えてきた今、もしかしたら私の記憶から漏れてしまっている方がいるかもしれないと思い、「すいません、もしかしたら私の記憶にないのかもしれません」と正直に答えたところ、「知り合いでデイサービスをされている方が、『そんなところに行ったかもしれない』と言っていたので…」とおっしゃいました。その言葉のニュアンスに??と違和感を覚えた私は、さっそく卒業生の名簿を調べてみました。


やはりというか、うちの卒業生に○○さんという方はいませんでした。もしかすると、似たような名前の他の学校に行かれたのか、それともかなり昔に町田にある他の学校に行かれたのか分かりませんが、いずれにしても、その方にとってその学校はほとんど記憶に残っていないということになります。「そんなところに行ったかもしれない」という言葉に私が引っ掛かったのはそこです。

 

もし湘南ケアカレッジに来てくれた卒業生であれば、ケアカレのことをそういう表現で伝えることはないと思うからです。卒業生の方々は頷いてくださると思いますが、ケアカレは「そんなところに行ったかもしれない」という学校ではなく、記憶に残る学校です。その方がうちの卒業生でなかったことはある面では残念でしたが(つながりという意味で)、卒業生ではなくて安心したというのが正直なところです。

 

年齢を重ねるにつれ、最近は記憶に残ることが何よりも大切だと思うようになりました。日々のほとんどのことは、良いことも悪いことも、いつの間にか風のように忘れ去ってしまいますが、なぜか記憶に残ることや人っていますよね。どれだけ良いことをしようが、どれだけ偉くなろうが、どれだけ儲けようが、人の記憶に残らなければ意味がないのです。そして、どうすれば記憶に残ることができるのか、これといった明確な答えはないのですが、ひとつのヒントとなるのであれば、それは感情だと思うのです。

 

湘南ケアカレッジの卒業生であれば、いつ頃に介護職員初任者研修を受けて、どんなクラスメイトたちがいて、どんな先生方に教えてもらったかを鮮明に覚えているはずです。授業の内容はほとんど忘れてしまっていたとしても(笑)、楽しかった授業の思い出や優しく熱心な先生方の顔や姿をありありと思い出すはずです。「ケアカレ、なつかしいなあ」とか、「また授業受けたいな」とか、「○○先生っているでしょ?」とか、そんな具体性を持って語り始めるはずです。それは私たちにとって嬉しいことですし、そういう記憶に残る学校でありたいと思います。