障害者の性について書かれた、もっとはっきり言うと、障害者にとってのセックスについて語られた本です。著者の小山内美智子さんは、重度脳性麻痺の障害を生まれつき抱えており、足の指以外を自らの意思で動かすことができないため、日常生活のほとんどにおいて介助者の手を借りなければ生きていけません。そのような状況の中でも、セックスが赤裸々に語られているのですから衝撃です。著者の言うように、それが衝撃でなく普通のことであってこそ本当の福祉社会だと思うのですが、この本の出版から20年経った今でも衝撃の大きさは何ら変わっていません。
この本は障害者の性というタブーを扱っているように見えて、実はこの本は日本社会の窮屈さを物語っているのだと思います。性の問題をタブー視してきたことによって、私たちが生きることと性が切り離されてしまっている。それはセックスだけではなく、肌の触れ合いや言葉のやり取りに至るまで、すべての性にまつわる問題のことです。これは死の問題と全く同じで、私たちの日常からできる限り排除されてしまうことで、逆説的ではありますが、私たちの生きることが霞んでしまうのです。性と生、そして死と生は常に隣り合わせであり、どちらか一方があるからこそ、もう片方も光り輝くのです。障害者の性とは、その問題が極端に歪んで現れたものであり、それは同時に私たちの社会の鏡でもあるのです。
心のオーガズムは金では買えない。女を抱きたい、男に抱かれたいとみんな叫び、泣いてほしい。我慢することはもうやめてほしい。百人叫べば何かが変わると私は信じている。
今日は夜のケアスタッフが来ないので、朝からお風呂に入って体が心地よい。暖かいお湯とだってセックスはできるのだと思う。誰かと会話しながら心を動かされ涙が出たとき、それは軽い精神的セックスだと思う。
セックスしたいと叫ぶのはごく自然なことだといいながら、矛盾しているようだが、ベッドから外を眺めている人たちよ、女を抱くだけがセックスではない、とも言いたい。気持ちがいいと思ったとき、それも心のオーガズムなのだと思う。きれいすぎるかな?
悲しく切ない思い出であるが、じつは私の活動の原点がここにあるのだ。壁があって、鍵がかけられ、大声を出してもいい部屋で愛し合いたい。そう思って、障害者の自立運動をやってきたのだ。何も大それた運動論なんてなかったのである。「壁がほしい」というたったひと言が私の運動論なのだ。
一生施設に住んでいる人もいる。健康な男女が何百人いる施設に、愛し合い語り合う空間がない、ということは異常な世界である。
何年たったらすべての障害者が、プライバシーの守れる個室でセックスを楽しむことができるのか、誰に聞けば答えがでるのだろうか。愛し合っている人みんなが怒ってほしい、泣いてほしい。私たちは人間なのだ。動物の交尾ではないのである。
小山内さんはこの本を書くにあたり、どれだけの勇気やエネルギーを振り絞ったことでしょうか。たとえ怒りや鬱屈から生まれてきたものであっても、それらの勇気やエネルギーは称賛されるべきであり、彼女は尊敬されるべきだと思います。著書「あなたは私の手になれますか」を読んだときに覚えた(介助を受ける側は何が何でも強気に要求を突き付けなければ生きていけないというスタンスに対する)違和感は消え去り、今回は彼女に素直に共感することができました。賛否両論はあるかもしれませんが、最後には愛という形に結実していくと私は信じています。