「101年目の孤独」高橋源一郎

この人が書くとパッと世界が変わる。それまで消えていた電灯をつけたときのように、世界が照らし出される。その独特なリズムと波長と世界観に酔いしれ、まるで自分がそう感じたかのように感じることで、今まで見えなかったものが見えるようになる。ダウン症の子どもたちのアトリエ、身体障害者だけの劇団、死に近づいてゆく子どもたちのためのホスピス、認知症の高齢者が通う民間施設など、髙橋源一郎さんはさまざまな場所を訪ね歩き、このルポタージュを書きました。


この本に登場する人々に通底しているのは「弱さ」。といっても私たちの知っている「弱さ」とは少し違った「弱さ」。実は、髙橋源一郎さnの次男は2歳の終わりに急性の小脳炎を発症したことで軽い障害を負い、そのことで「わたしたちの世界、「ふつう」の人びと、「健常者」と呼ばれる人びとの住む世界とは少し違う」世界を知り、「彼らがわたしたちを必要としているのではない、わたしたちが彼らを必要としているのではないか」ということに気づいたと言います。坂道を下ってゆく日本の社会において、「弱さ」とは何かを私たちは考えなければならない、という著者の主張に私は頷きます。

 

どこの場所のルポタージュも素晴らしいのですが、特に力が入っているのは、マーチンハウスというイギリスにある子どもホスピスを訪れたときのものです。そこで出会ったのはベアトリスという4歳の少女でした。とても4歳には見えない、聡明で、可愛らしい女の子。ベアトリスが父にたったの1度だけ、「わたし、死ぬの?」と訊ねたことがあるといいます。子どもホスピスの子どもたちは、よくそんな質問をする。でもたいていは皆一度だけだそうです。その理由を子どもホスピスのスタッフは、「知りたいことは一度でわかるのです。そして、それ以上、訊ねることが親を苦しめることを、よく知っているからです」と説明します。


死は、その4歳の女の子のすぐ傍らにいるのだ。彼女も家族も、それから、周りにいる人たちはみんな、そのことをよく知っている。けれど、そのことは彼女を追い詰めもせず、勇気を挫くこともできない。わたしは、そのことを考えた。わたしは、とても不思議だった。その4歳の女の子と話しながら、その深いブルーの瞳がわたしを射抜くように見つめるのを感じながら、いままで味わったことのない感情が、私の中で動いていた。


最後に、福岡市にある「宅老所よりあい」を訪ねた際、認知症の高齢者が自分たちのペースに合わせて自由に生活している姿を見て、こう記している。


人は必ず老いる。あなたたちも、わたしもだ。「老い」は病気ではない。では、「ボケ」とか「認知症」とか呼ばれるものは、どうなのだろう。老人の3割とか4割とかが、そうなってゆくのだとしたら、それを「病気」と呼んでもかまわないのだろうか。

(中略)

わたしたちは、「弱い」存在として生まれる。赤ん坊は「弱い」。庇護されなければ、僅かの時間も生きていくことはできない。そのことを、いつの間にか、わたしたちは忘れる。忘れて、自分が「強い」自立した人間であると思いなす。そして、また、時がたって、わたしたちは「老い」衰える。「弱い」ものとなる。元に戻るのである。

 

だとするなら、「弱さ」とは、私たちがもともと持っている属性なのかもしれない。ただ、忘れているだけなのだ。いや、忘れさせられているだけなのだ。