乙武洋匡さんが台湾のプロ野球で始球式をしたというニュースを聞き、その様子を動画で見てみると、何とも感動的な光景が広がっていました。2011年の東日本大震災で台湾から最大規模の義援金が送られたことに対する感謝を伝えるためマウンドへ。「謝謝!」と叫びながら、左腕と頬でボールを挟むようにして投げる姿に、台湾の人たちからも暖かい拍手が送られていました。こうして自らの個性を生かしつつ、行動して、世の中を変えていこうという乙武さんには頭が下がります。
ここからは私の勝手な解釈ですが、かつてジョン・レノンがそうしたように、乙武さんはあらゆる面においてバリアフリーな世の中を想像しているのだと思います。物理的な面から精神的な面までのバリアフリー。もちろん、そんな世界の実現には多くの困難が待ち受けていることは確かですが、私たちがまず想像してみなければ始まらないのです。
心のバリアフリーにおいて、私がとても共感できるのは、「先回りの配慮はやめてほしい」という乙武さんの意見です。前後関係は省略しますが、彼はTwitter(ツイッター)にて以下のようなつぶやきをしました。
<今回の騒ぎは、「障害者」を「障がい者」を表記する流れと良く似ている。「害」という字は、障害者が不快に思うのではないか――障害者がすべて同じ心境であると「一括りにした」「先回りの」配慮。それは僕からすると「臭いものにはフタ」と受け取れなくもない。正直、そうした思考を不快に思う。>
私も「障害」を「障がい」と表記する流れができた時期、何とも言いがたい違和感を抱いていました。また、かつて障害者ヘルパーという資格ができたとき、その講座の案内文に、「障害を持つ方」と書いたら、「障害のある方」と書かなければダメだと、その当時の上司に諭されたこともあります。そのときは、そんなものか…と思いましたが、今となっては、どちらでも構わないし、その使い方等は個別に判断すべきだとはっきりと言えます。
古い記憶が蘇ります。子どものころ、「ちびくろさんぼ」というお話が大好きでした。トラが木の周りをぐるぐると回り、最後はバターになってしまい、サンボがホットケーキにして食べるという場面が今でも印象に残っています。この「ちびくろさんぼ」が出版社の自粛という形で発売中止になったことがありました。黒人を差別しているというのが理由でしたが、子ども心には全くもって意味不明でした。決して子ども時代の私が無知だったからではなく、黒人を差別するという考えすらなかったからです。つまり、差別をしている人には差別が見えるのであって、差別している人が差別を作り出しているのです。つまり、「障がい」「障がいのある」と表記すべきだと言う人の心にこそ差別が潜んでいるのです。
「障がい」や「障がいのある」と表記すべき、「ちびくろさんぼは黒人差別の絵本だ」と指摘するのは、当事者ではなく、その周辺の人たちなのです。その問題を少しかじった(もしくは知った)だけで、そんなことまで配慮できる私はインテリなのよと考える人間の平坦さが透けて見えるからこそ、乙武さんは当事者のひとりとして「不快に思う」とはっきり言ったのだと思います。言葉の使い方はあくまでも個別のものであって、心のバリアフリーの問題の本質はそこにはないのです。台湾に始球式に行った乙武さんは、それを行動で語っているのです。